『思考の整理学』は1983年に刊行され、250万部以上を売り上げている大ロングセラー書籍です。
筆者の外山滋比古さんは惜しまれつつも昨年亡くなってしまいました。
ご冥福をお祈りいたします。
自分は10年以上前の学生時代に読んで、おもしろかった記憶はあるのですが、内容はまったく覚えてませんでした。
『思考の整理学』とは、どのような本であったか
今回読み直した動機は、別の記事で紹介した「思考の棚」を「整理」したいからでした。
いわば思考を整理するテクニックを拾い読もうとしたのです。
しかし、その読み方はこの本自体に拒まれてしまいました。
なぜなら、文庫版のあとがきにも記されているように、いわゆるハウツウを目指していない本だったからです。
タイトルも「整理術」ではなく「整理学」です。
『思考の整理学』という本は「ものを考えるとはどういうことか(=思考の本質)」に関する洞察がまとめられたエッセイです。
読書の楽しみは、筆者の主張を知ることではなく、筆者が主張を納得させてくれるプロセスにあると思います。
その意味で本書は、この上なく楽しい読書体験でした。
テーマに対する筆者の小気味よい切り口と語り口がおもしろく、努めて平易な言葉を用いて本質を説かれています。
当ブログで外山さんの「甘美な説法」を再現することは難しいので、本書で示された思考のエッセンスをいくつか紹介していきます。
エッセンス紹介
※コンパクトに紹介する目的のもと、エッセイの意味内容は変えずにブログ用に書き換えた文章であることをご了承ください。
グライダー人間と飛行機人間
人間の学びに関する姿勢は2種類に分別される。
学校が発する風を従順に受けて飛ぶグライダー人間と、自ら搭載したエンジンで自力飛翔する飛行機人間。
受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者。
両者は一人の人間の中で同居している。
グライダー能力がゼロでは基本的な知識すら習得できない。
何も知らずに独力で飛ぼうとすれば、どんな事故を起こすかわからない。
しかし、現実にはグライダー能力が圧倒的で、飛行機能力はまるでなし、という“優秀な”人間がたくさんいることもたしかで、しかも、そういう人も“翔べる”という評価を受けている。
飛び抜けて優秀なグライダー能力を持つコンピューターが現れた今となっては、自分で翔べない人間はコンピューターに仕事を奪われる。
この本では、グライダー兼飛行機のような人間になるには、どういうことを心掛ければいいかを考えたい。
『思考の整理学』はこの「グライダー」というエッセイから始まります。
醗酵
例えば、文学研究で熟したテーマを得るにはどういったプロセスが必要か。
まず、作品を読む。
感心するところ、違和感をいだくところ、わからない部分などをピックアップする。
この部分が素材である。
ただ、これだけではどうにもならない。
ビールを作るのに、麦がいくらたくさんあっても、それだけではビールができないのと同じである。
これにちょっとしたアイディア、ヒントがほしい。
雑談、読書、新聞、SNSなど、どこにおもしろいアイディアが潜んでいるかはわからない。
このヒント、アイディアがビール造りなら醗酵素に当る。
アルコールに変化するきっかけとなる醗酵素を加えてやる必要がある。
これは素材の麦と同類のものではいけず、異質なところからもってくるのである。
大きな発見が、ときに霊感によってなしとげられたように見えるのは、この酵素が思いがけないところから得られたことに起因している。
それでは、アイディアと素材さえあれば、すぐ醗酵するか、ビールができるのか、というと、そうではない。
しばらくそっとしておく必要がある。
のちの章では、“寝させる”ことの重要性が説かれています。
カクテル
ものを考え、新しい思考を生み出す第一の条件は、あくまで独創である。
自分の頭で考え出した、他の追随を許さない着想が必要である。
ただ、それを振り回すだけでは説得力をもたない。
せっかくのアイディアが悪いドグマに見えないようにするには、どういった方法が必要か。
同じ問題についてAからDまでの説があるとする。
自分が新しくX説を得たとして、これだけを尊しとして、他をすべてなで切りにしてしまっては、蛮勇に堕しやすい。
Xにもっとも近いBだけを肯定しようとするのも、我田引水感がいなめない。
AからDまでとXすべてを調和折衷させる。
こうしてできるのがカクテルもどきではない、本当のカクテル論文である。
すぐれた学術論文の多くは、これである。
ちなみに「カクテルもどき」はA、B、C、D説をまぜ合わせた、ちゃんぽん酒のことだと説明されています。
こんな至言を読んでおきながら、我が卒業論文は本当のカクテル論文たりえたのか。
後悔は残ります。
情報の“メタ”化
情報の“メタ”化とは、ある情報をふまえて、より高度の抽象が行われることを指している。
例えば「TOHOシネマズで映画『〇〇』が公開中である」が第一次情報。
これに対して「『〇〇』はヒットしており、作品の質も高いと評判である」となればメタ化した第二次情報である。
思考、知識についても、このメタ化の過程が認められる。
もっとも具体的、即物的な思考、知識は第一次的である。
その同種を集め、整理し、相互に関連づけると、第二次的な思考、知識が生れる。
これをさらに同種のものの間で昇華させると、第三次的情報ができる。
第一次的な情報の代表に、ニュースがある。
「こんなことが起きた」と事件や事実を伝えてくれるが、この時点では、その情報がどういう意味をもつかははっきりしない。
第二次的情報は、新聞の社説に当る。
第一次情報のニュースを基礎に、整理を加えたメタ・ニュースである。
ネットで言えば、まとめ記事である。
まとめる上で「参考になるであろう」意見や記事を取捨選択・編集するが、それ自体で読者に明確な主張を打ち込む目的をもたない性質のものだと言える。
思考の整理というのは、低次の思考を、抽象のハシゴを登って、メタ化していくことにほかならない。
第一次的思考を、その次元にとどめておいたのでは、いつまでたっても、たんなる思い付きでしかしかないことになる。
整理、抽象化を高めることによって、高度の思考となる。
普遍性も大きくなる。
思考の整理というと、脳内にある論文や資料で得た知識・思考の重要なものを残し、不要なものは捨てるという量的処理を想像しがちである。
本当の整理はそういうものではない。
第一次思考をより高い抽象性へ高める質的変化である。
いくらたくさん知識や思考、着想をもっていても、それだけでは第二次的思考へ昇華することはない。
量が質の肩代わりをすることは困難である。
思考の整理には、平面的で量的なまとめではなく、立体的、質的な統合を考えなくてはならない。
この本で、着想の発酵などについて、ことにくわしく考えてきたのは、この点を考えてきたからである。
これを思考の純化と言いかえることもできる。
この章に『思考の整理学』の本質が詰まっていると思いました。
また、論文には第二次的情報でもなお昇華度が不足で、第三次的情報であることが求められるようです。
論文で求められるレベルを、極めて的確に提示していますね。
ジャンルを問わずあまねく論文に当てはまる基準と呼べます。
それはすなわち、ここで提示された情報が、高度に抽象化されたものであることを物語ってもいるわけです。
さいごに
この記事で紹介したエッセンスは氷山の一角です。
『思考の整理学』では、上で紹介したような「思考の整理」を促進する上で有益なエッセイが他にも多く展開されています。
楽しい読書、知的なひとときを味わいたい人には必読書と言えます。
ちなみに、たまたま最近読んでいた名著『知的生産の技術』(1969年)は本書との親和性が高いです。
別の時代に別の言葉で語られていながらも、同じように思考の本質について考察されています。
こちらに関しても読み終わったら記事にしてみます。
また後日に。