前回の記事では『知的生産の技術』における基礎の部分にあたる、
- 「知的生産」の定義
- カードとその使い方
を紹介しました。
今回は、読書法や文章術などを取り上げていきます。
『知的生産の技術』色あせぬ50年前の創造術(後編)
整理と整頓
・整理というのは、ちらばっているものを目ざわりにならないように、きれいにかたづけることではない。それはむしろ整頓というべきであろう。ものごとがよく整理されているというのは、みた目にはともかく、必要なものが必要なときにすぐとりだせるようになっていることだとおもう。
・整理は機能の秩序の問題であり、整頓は、形式の秩序の問題である。やってみると、整頓よりも整理のほうが、だいぶんむつかしい。たとえば、書斎のなかをきれいに整理することはだれでもできるが、整理することは本人でないとできない。
『知的生産の技術』(電子書籍版)より
『思考の整理学』では、
思考の整理というと、脳内にある論文や資料で得た知識・思考の重要なものを残し、不要なものは捨てるという量的処理を想像しがちである。
本当の整理はそういうものではない。
第一次思考をより高い抽象性へ高める質的変化である。
と述べられていた。
「量的処理」とは整頓のことだったのだ。
整理と整頓という言葉がそれぞれ明確に定義され、おかげで脳内が整頓された。
読書
この章の前提部分を要約する。
読書は精神にとっての糧という意味合いで、よく食事に例えられる。
読書法とは、食事における栄養学のようなものである。
食事には栄養面と、味覚の楽しみという面とがあるように、読書にも精神の糧という面と、心の楽しみという面がある。
栄養学と食味評論とが違うように、読書論においても、技術論と鑑賞論とは、いちおう別に考えたほうがよい。
ここで語られるのは、知的生産のための読書法である。
どこの料亭のなんて料理がうまい、ということには言及されない。
どういう材料を、どう料理して、どのように食べれば、ほんとうに血になり、次の活動のエネルギー源になりうるかという技術論が、テーマである。
つづいて、梅棹氏が本に線をいれる箇所には明らかに2つの系列があると述べる。
・第一の系列は「だいじなところ」である、第二の系列は「おもしろいところ」である。
『知的生産の技術』(電子書籍版)より
「だいじなところ」は、その本を理解する上でカギとなる部分、もしくは筆者の考えがはっきりと表れた部分などである。
それはいわば、「その本にとって」あるいは「その本の著者にとって」だいじなところであると言える。
ところが、実際にはその書物の本筋とはほとんど関係のないようなところに傍線をいれている場合も少なくない。
これが、「おもしろいところ」であって、そのおもしろさはまさに、「わたしにとって」のおもしろさである。
このあとに、いよいよ創造的読書に関して言及する。
・だいじなことは、読書ノートの内容である。よみおわって、読書ノートとしてなにをかくのか。わたしの場合をいうと、じつはカードにメモやらかきぬきやらをするのは、全部第二の文脈においてなのである。つまり、わたしにとって「おもしろい」ことがらだけであって、著者にとって「だいじな」ところは、いっさいかかない。なぜかといえば、著者の構成した文脈は、その本そのものであって、すでにそこに現物として存在しているからである。著者の文脈をたどって、かきぬきやらメモやらをつくっていたのでは、けっきょくその本一冊をそっくりカードにうつしとるようなことになってしまって、むだなことである。必要なら、その本をもういっぺんみたらよいではないか。
・本の著者に対しては、ややすまないような気もするが、こういうやりかたは、いわば本をダシにして、自分のかってなかんがえを開発し、そだててゆくというやりかたである。もっぱら読書のたのしみを享楽するのもよいが、それはいわば消費的読書である。それに対して、こちらは生産的読書法ということはできないだろうか。あるいは、また、このやりかたなら、読書はひとつの創造的行為となる。著者との関係でいえば、追随的読書あるいは批判的読書に対して、これは創造的読書とよんではいけないだろうか。
『知的生産の技術』(電子書籍版)より
たしかに読書をする上では「その本にとって」重要な部分や主張を理解したほうがいい。
しかし、その読書を知的生産へとつなげるためには「自分にとって」重要な部分にフォーカスを当てていく必要があるのだ。
日記と記録
前の記事でカードの有用性を紹介した。
記録は重要なのである。
その考えを押し拡げていくと、人生を記述した日記すらも創造の糧にしていこうという結論にいたるのは必然的な流れだ。
・記憶というものは、ほんとうにあてにならないものである。どんなに記憶力のすぐれたひとでも、時間とともにその記憶はたちまち色あせて、変形し、分解し、消滅してゆくものなのである。記憶のうえにたって、精密な知的作業をおこなうことは、不可能にちかい。記録という作業は、記憶のその欠陥をおぎなうためのものである。ものごとは、記憶せずに記録する。はじめから、記憶しようという努力はあきらめて、なるだけこまめに記録をとることに努力する。これは、科学者とはかぎらず、知的生産にたずさわるものの、基本的な心得であろう。
『知的生産の技術』(電子書籍版)より
自分は物覚えがすこぶる悪いので、上の言には勇気づけられた。
しかし、記録する努力すらも怠っていた点は猛烈に反省しようと思う。
・自分自身の経験の記録を、着実につくってゆこうというのは、資料の蓄積ということのもつ効果を信じているからにほかならない。なにもかも、見聞のすべてを研究の材料にしてやろうというほど、がつがつしているわけではないが、人生をあゆんでゆくうえで、すべての経験は進歩の材料である。とくに、われわれのように、知的生産を業としているものにとっては、これはほとんど自明のことである。
『知的生産の技術』(電子書籍版)より
上の「研究の材料」という文言を「映画」に置き換えて読んでみていただきたい。
それはそのまま本ブログの運営テーマである。
映画監督を目指しているのに、映画以外に興味が向かっていく運営者。
でも、そのすべての経験は進歩の材料となるのだ。
そうして自らを慰め、資料の蓄積(=インプット)を続けていく。
肝心の知的生産(=アウトプット)に関しては、追ってがんばっていこう。
課題は山積している。
文章
・ざんねんながら、人間の頭のなかというものは、シリメツレツなものである。知識やイメージが、めちゃくちゃな断片のかたちでいっぱいつまっていて、それが意識の表面にでてくるときも、けっして論理的なかたちで整然とでてきたりはしない。それを、文章にするときに、努力して論理的なかたちに組みなおすのである。「おもいつくままに」かいていったのでは、まったく文章の体をなさないだろう。
『知的生産の技術』(電子書籍版)より
文章はいきなり書き始めても成立しない。
断片的な素材(カードやメモなどの知識の一片)を使って、まとまりのある考えを作る、文章の構築法とはつぎのようなものだ。
※下の引用部の「紙きれ」はB8判(6.4 × 9.1cm)を想定しているが、紙のサイズは各々で使いやすいものでかまわない
・その紙きれに、いまの主題に関係のあることがらを、単語、句、またはみじかい文章で、一枚に一項目ずつ、かいてゆくのである。おもいつくままに、順序かまわず、どんどんかいてゆく。すでにたくわえられているカードも、きりぬき資料も、本からの知識も、つかえそうなものはすべて一ど、この紙きれにかいてみる。ひととおり出つくしたとおもったら、その紙きれを、机のうえ、またはタタミのうえにならべてみる。これで、その主題について、あなたの頭のなかにある素材のすべてが、さらけだされたことになる。つぎは、この紙きれを一枚ずつみながら、それとつながりのある紙きれがほかにないか、さがす。あれば、それをいっしょにならべる。このとき、けっして紙きれを分類してはいけない。カードのしまいかたのところでも注意したことだが、知的生産の目的は分類ではない。分類という作業には、あらかじめ設定されたワクが必要である。既存のワクに素材を分類してみたところで、なんの思想もでてこない。分類するのではなく、論理的につながりがありそうだ、とおもわれる紙きれを、まとめてゆくのである。何枚かまとまったら、論理的にすじがとおるとおもわれる順序に、その一群の紙きれをならべてみる。そして、その端をかさねて、それをホッチキスでとめる。これで、ひとつの思想が定着したのである。
『知的生産の技術』(電子書籍版)より
このホチキス止めされたカタマリを筆者は「こざね」と呼んでおり、この文章構築法は「こざね法」と名付けられている。

『知的生産の技術』(電子書籍版)より
・こざね法というのは、いわば、頭のなかのうごきを、紙きれのかたちで、そとにとりだしたものだということができる。それはちょうど、ソロバンのようなものである。ソロバンによる計算法は、けっきょくは暗算なのだが、頭のなかのうごきを、頭のそとでシュミレートしてみせるのが、ソロバンの玉である。こざね法は思想のソロバン術で、一枚一枚のこざねは、ソロバン玉にあたる。
『知的生産の技術』(電子書籍版)より
筆者の例えは毎回うまくて、わかりやすい。
要点をすべてを言い表している。
・この方法のよいところは、創造的思考をうながすことであろう。ばらばらな素材をながめて、いろいろと組み合わせているうちに、おもいもよらぬあたらしい関係が発見されるものである。もうひとつ、文章という点からいってたいせつなことは、この方法でやれば、だれでも、いちおう論理的で、まとまった文章がかける、という点である。
『知的生産の技術』(電子書籍版)より
ここで提示されたのは、異質のデータからいかにして意味のある結合を発見できるかという、発想法の技術である。
この技術は、梅棹氏の仲間でもある川喜田二郎氏によって、より体系的にまとめられており、頭文字をとったKJ法と名付けられている。
KJ法について川喜田氏が書いた『発想法』は古典とされている。
ともあれ、いちおうのマトモな文章が書けてしまうというスグレモノを読者にも紹介してくれたわけだ。
おわりに ー書籍はひかれ合うー
『知的生産の技術』は、今でも応用可能な基本的な方法が詰まった本であった。
読むことで、以前に読んだ『思考の整理学』で示されたエッセンスを別の側面から照射し、理解を深めることができた。
引用した箇所の文章を読めば、本書の面白さが伝わったことと思う。
興味のわいた方は、実際に読んでみられることをおすすめする。
「知的生産の技術」とは端的に言えば「アイデアのつくり方」に他ならない。
頭の中に「!」が飛び出し、本棚に眠る『アイデアのつくり方』を引っぱり、読み直してみた。
名著とされるその本を、最初に読んだときは平易に書かれすぎていて、さらっと読み流してしまっていた。
しかし、今読み返すと60ページに満たない本文の中に、「アイデアのつくり方」に関する知恵と真実が必要十分に詰め込まれていることがわかった。
書籍紹介の連打に辟易されるかもしれないが、次回は『アイデアのつくり方』を紹介する。