先日読んでいた、『自分のアタマで考えようー知識にだまされない思考の技術』(著者ちきりん)の中に「思考の棚」という概念が出てきました。
なんと「思考の棚」がうまく整理されている人は、頭の回転が速く見えるそうです。
簡単な例を2つ挙げて解説してみたいと思います。
例①芸人のネタを見た時
初めて見たお笑い芸人のネタが面白かったとします。
脳内である思考がはたらきます。
「このネタがたまたま面白いのかもしれない。この芸人自体が面白いと判断するのは時期尚早だ」と。
後にまたその芸人を見て、ネタやトークが面白かったら「この芸人面白いわ」と好きになり、逆に面白く感じられなければ「最初に見たレベルの面白さをこの芸人に求めることは難しいかもしれない」と距離を置いてしまう。
解説
この場合は「初めて見たお笑い芸人のネタが面白かった」が知識です。
その知識をもとに考えたこと(=思考)が「このネタがたまたま面白いのかもしれない。この芸人自体が面白いと判断するのは時期尚早だ」という部分になります。
この思考を持った上で次に同じ芸人を見ると、自身の意見がより明確になります。
あえて言葉にしましたが、このプロセスはお笑い好きの人たちは自然とやっていることですよね。
次の例を見てみましょう。
例②映画を観た時
ある映画Aを好きになったとします。
スタッフは無名の監督、著名な脚本家、カメラマンを筆頭にした現場スタッフは熟練ぞろい。
脳内で思考がはたらきます。
「この映画Aの面白さは監督の手腕から来ているのか?脚本が優れているからか?それとも熟練の映画スタッフたちの力なのか?」
(余談ですが、この問いに関しては、その全てが正解です。全スタッフの力です!)
では同じ監督が別の作品Bで、違った脚本家、スタッフで撮った映画を観たとします。
面白かった場合「自分はこの監督の演出が好きなんだ」と気付き、楽しめなかった場合「自分が感じていた前作Aの魅力の大部分は、監督以外の手で形成されていたのかもしれない」と考える。
解説
ここでは映画Aを観たことが知識です(森達也監督の『A』と紛らわしい点はご容赦ください)。
映画Aの鑑賞体験をもとに、「この映画Aの面白さは監督の手腕から来ているのか?脚本が優れているからか?それとも熟練の映画スタッフたちの力なのか?」という思考を持ちます。
すると、映画Bを観たとき、Aを観たときの思考で生まれた「?(疑問)」に対するアンサーが即座に形作られます。
これも映画をよく観る人は、意識せずとも実践していることだと思います。
頭の回転が速い人の思考プロセス
上記のように、お笑いや映画に関する意見をソッコーで述べても、周囲からは「詳しいですね」に類する反応しかないかもしれません。
しかし、このプロセスが新聞に載るような社会的関心事(政治や経済うんぬんかんぬん)を題材にできている人には羨望のマナザシが集まります。
少なくとも筆者はそうです(自分にはできないから)。
さておき、閑話休題で解説に戻ります。
世間では、新たな情報を得てすぐに気の利いた意見を言えるような人を「頭の回転が速い」と呼びます。
そういった人たちは多くの場合、その場で考えているわけではありません。
知識をもとに考えたこと(思考≒推測、想定)が頭の中にすでにストックされており、「こんな情報が入れば、こういう意見が言える」というスタンバイ状態で控えています。
待っていた情報が実際に手に入ったとき、それを「思考の棚」にまるで“ジグソーパズルの最後のピース”をはめ込むようにポンと放り込み、すでに考えてあった結論を「思考の棚」から取り出してきているのです。
筆者は上のジグソーパズルの説明を読んで、島田紳助さんのトークもこんな感じだったよなぁと遠く思いをはせるのでした。
まとめ
「思考の棚」とは、脳内にある思考の待機場所のことです。
頭の回転が速い人になるには、「思考の棚」に自分で考えた思考をせっせと格納して整理しておかなければなりません。
『自分のアタマで考えよう』は、知識収集ではなく、得た知識をもとに「自分で考える」ことに主眼を置いた書籍でした。
思考の棚…
整理…
という言葉を反芻しているうちに、
「そういえば『思考の整理学』なんてベストセラーもあったよなぁ」
と思い出し、読み返してみることにしました。
それに関する記事も、後日書いてみます。